【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】〈44〉「人生100年時代」に思う

第35回土光杯全日本青年弁論大会で産経新聞社杯を受賞した大瀧真生子さん(納冨康撮影) 第35回土光杯全日本青年弁論大会で産経新聞社杯を受賞した大瀧真生子さん(納冨康撮影)

自死も老後の選択肢のひとつ

 以前にも書いたことだが、還暦を過ぎると、自分の人生にどう始末をつけたらいいか、考えるとはなしに考えてしまう。そのとき決まって浮かぶのが、宗教戦争とペストの大流行に覆われた悲惨な時代を生きたモンテーニュの次の言葉である。

 《(老衰死は)自然がこの長い道程の中途に散在させたさまざまな困難障害を特にとり除いて、二、三世紀を通じてただ一人の果報者に、特別の思召しをもって与えるところの特赦である》(第1巻第57章「年齢について」)

 それから400年以上が経過、栄養・衛生状態は向上し、医療技術はずいぶん進歩した。戦後の日本に生まれたおかげで、戦争で死ぬという可能性を考える必要もなかった。日本経済は右肩上がりで、「明日は今日より素晴らしい」と誰もが思える時代を生きさせていただいたのだが、自分がモンテーニュの言うような「果報者」になれるとはとても思えない。両親から受け継いだ遺伝子、これまでの生活習慣、家計状態、家族関係、国家の動向、国際情勢などの因子が複雑に絡んでくるからだ。

 この先自分を待ち受けるのは病の痛苦、認知症、はたまた経済的困窮か。文明の進歩に感謝しつつも、何が「人生100年時代」か、と毒づき、理性的判断ができ、体が思い通りに動かせるうちに「自死」するのも老後の選択肢のひとつではないか、とぼんやり考える。

青年が安楽死を求める社会とは

 1月25日の本紙に「私の100歳時代プロジェクト」をテーマにした今年の土光杯全日本青年弁論大会の入賞者の弁論要旨が掲載されていた。産経新聞社杯を受けた早稲田大2年の大瀧真生子(おおたき・まおこ)さん(21)のそれを読み考え込んでしまった。

 少子化が急速に進む長寿社会の負の側面に目を向けた大瀧さんは《認知症によって自らの意思伝達手段を失った状態になってまで生き続けたいとは思いません。また、寿命が延びるといっても、経済的に困窮し余裕のない人生の最期は望んでいません》と述べ、こう主張する。

 《私は自分らしく生き、自分らしく人生の幕引きを図るという点で、安楽死という制度が、これからの日本にとって必要な選択肢だと考えます》

 還暦を過ぎた私のような人間がこう主張するのは理解できるが、未来ある青年がこう考えざるをえない社会を作った大人の責任は重い。40年前、21歳の私は老後のことなどこれっぽっちも考えたことはなかった。青年はイノセント(無邪気)に生きることができた幸せな時代だった。

 日本人を踊り狂わせたバブル経済が平成3年から5年にかけて崩壊したあと、天罰でも下されたかのように、日本は冷たい空っ風が吹きすさぶ時代に突入した。経済の低迷が長く続き、急速な少子高齢化は進み、ついには人口の減少が始まり、将来的には社会保障制度の破綻が見込まれるようになった。悲観的な未来像しか描けぬ時代の空気は、どうしたって人の心を縮こまらせてしまう。

 私とて、「自死」に踏み切ることができず、ベッドに縛り付けられ、痛みに苦しみながら死を待つだけの状態になってしまったら安楽死を望むだろう。その点では、安楽死を権利として認めることには賛成だ。ただ、認知症になった場合はやっかいだ。理性的判断ができる状態の時に、家族あてに「そうなったときには安楽死を望む」と一筆書きおいていたとしても、その最終判断は家族が下すことになる。そんなやっかいなことはとてもじゃないがお願いできない。頼めるのはせいぜい「延命治療は不要」ということぐらいだ。

物質主義の軍門に下るな

 大瀧さんの主張の中で特に考えさせられたのは《私たちの世代は、施設に入るお金すらもらえるかわからない》という部分だ。これは世代を問わず多くの日本人が抱いている不安だろう。

 現状を傍観し、予想される悲惨な未来を嘆くだけなら、間違いなくその通り、いやそれ以上に悲惨な未来が訪れるだろう。年金の大幅減額か税金の大幅アップといった、政治家が選挙で絶対に口にしたくない政策を断行しない限り、現行の年金制度を維持するのが困難なことは、小学生にも分かる。制度を維持するのか、廃止して自己責任で老後を生きるようにするのか、それとも第三の道を模索するのか、そろそろ国民全員が現実を見つめ議論を開始する時期にきている。

 もうひとつ。《定年後の人生において自分らしさを発揮できるような経済的余裕がないかもしれない》という部分も気になる。カネはもちろん大切だが、経済的余裕はなくとも、自分らしさを発揮できる人生を送ることは可能ではないか。私はバブル経済によって日本人が精神性を失い、完全に物質主義の軍門に下ったとの認識を持っている。そこから自由になることが、大瀧さんの世代だけでなくすべての日本人に求められていると思う。

日本の復興は年金制度の廃止で

 大瀧さんの弁論に触発されていろいろ書いてきた。最後に持論(暴論)を述べておきたい。

 年金制度は廃止すべきだと私は考えている。もちろん即座にできることではない。30年先にソフトランディングできるよう知恵を絞ってゆくのだ。老後は国に頼らず、自力で生きる。それが無理なら自分の子供に面倒を見てもらえばよい。1人で親を支えるのは重荷だろうから最低2人、できれば3人の子供を育てておきたい。肝心なのは子育てをしながら、老いた親を子供が扶養するのは当たり前という空気を醸成してゆくことだ。同時にこれから建てる家は2世帯が暮らせる間取りを基本とする。

 戦後日本の大きな過ちのひとつは、核家族を理想化し、住環境の標準を団地サイズの間取りとしてしまったことだ。これによって家族のつながりは断ち切られ、人口減少の淵源(えんげん)にもなった。連合国軍総司令部(GHQ)の戦後政策が日本の永遠の弱体化をねらったものだとしたら、それはまんまと成功したことになる。年金廃止を契機に、これをひっくり返すのだ。

 こんなことを書くと「結婚しない人、子供のできない夫婦、性的少数者(LGBT)の人たちはどうするんだ」と石が飛んできそうだが、それは各人が工夫して老後に備えてゆくしかない。子供を持っていようがそれは同じだ。どうにもならない場合は、公の施設に入居して暮らしてもらうようにすればいいだろう。

 日本の国力回復は家族の復興にかかっている。それは年金制度の廃止から始まると私は信じている。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。=隔週掲載(文化部 桑原聡)

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